阪神大震災から27年②

2022年1月18日(火)

昨日に引き続いて27年前に体験したことを思い出せる範囲で綴っていきたいと思います。

大震災の翌日、現地に行き危険倒壊家屋で1泊して感じたことは、まさに戦時中の場所にいる、という感覚でした。

当時はまだインターネットも普及しておらず、電気も使えないためテレビも観れず、リアルタイムの情報が入ってきませんでした。

現地で被災した人達は、どこまでの範囲が被災しているのかもわかりませんでした。

比較的近くで火災が発生していることすらわかりません。ラジオが鳴っている所もありましたが、映像がなければインパクトも薄く、どれだけの範囲にどのような被害が出ているかもわかりませんでした。

避難所も各地に設置されましたが、ここでも格差が生じていました。トラさんが通っていた小学校には某テレビ局が拠点を置いたため、全国から物資が集まりましたが、その近くの公民館を避難所にした所は、必需品不足で困っていました。

物資をすぐに回せば良いと思いますが、近くでありながら情報伝達も簡単にはいかなかったのです。

たくさんの犠牲者が出た中、知り合いに出会うとお互い命が助かって良かったという挨拶を交わしていました。

財産類の家の登記簿や株券などはどうなったのかと母親に尋ねると、銀行の貸金庫に入れていたので無事だったようです。この時は流石だと思いました。

トラさんは地震の翌日の水曜日に現地へ行き、1泊して一旦名古屋の自宅に戻りました。この時、お風呂に入りお布団の上で寝られることに対して、この上なくありがたみを感じました。

金曜日は必需品の購入です。青いシートや携帯電話を購入しました。当時、携帯電話はデジタルが出始めていましたが、アナログの方が繋がり易かったので、NTTドコモのアナログ携帯電話にしました。

また、当時はパソコン通信が流行り始めた頃で、「ニフティーサーブ」に震災関連の掲示板があり、、安否情報が出ていました。トラさんの兄の友人M氏が、我々の両親の安否確認をしている書き込みを見つけ、すぐに無事の返答をした覚えがあります。

当時は電話回線に繋いでガーガーピーピーという独特の音が聞こえてから画面がでてきたものです。速度は2,400bpsだったと思います。映画「ユーガッタメール」でもガーガーピーピーが聞こえます。

土日を利用してまた被災地に行きました。頻繁に余震が発生していました。臭いはしませんが、鼻にツーンと来る時がありましたが、今から思えばそれは建材に使われていた石綿だったのではないかと考えられます。

当時を思い出すとまだまだ書き残しておきたいことはたくさんありますがキリがないので、このテーマにフォーカスして別の機会に綴っていきたいと思います。

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