阪神大震災から27年

2022年1月17日(月)

1995年1月17日5時46分に大地震が起きました。トラさん一家は当時名古屋に住んでおり、新築8階建社宅の6階に住んでいましたが、かなり揺れました。

テレビをつけると大阪がかなり揺れ、被害も出ている映像が映っていました。神戸市東灘区にあるトラさんの実家に電話をしても繋がりません。

この日、トラさんはお客さんと同行販売でしたので、車に乗っている間はラジオから被害状況を聞いていました。大阪よりも神戸がひどいこともわかりました。

お昼ご飯に入ったお店では、テレビを通して新幹線の高架橋が倒壊しているなど、衝撃的な映像が流れていました。

そのうち犠牲になった人の名前と年齢が読み上げられています。ほとんどが60歳以上の方々です。

午後3時頃に自宅にいるカウちゃんへ連絡を取ったところ、米国ボストンに住んでいるトラさんの兄から電話があり、「隣に住むおじさんはあかんかったけど両親は無事らしい」と親戚から情報を得たというのです。

当時は電話回線が込み合っており、国内電話は全く繋がりませんでしたが、国際電話は別回線なのか繋がることができたようです。

隣のおじさんが犠牲になったのであれば両親も怪我ぐらいはしているだろうと考えました。

結局その日は両親の声は聞けずじまいでした。やはり現地へ行くべきだと思い、翌日と翌々日は会社にお休みを頂きました。当時まだ一般的ではなかった携帯電話も会社から借りることができました。

翌日は現地へ向かう前に銀行で現金をおろしてから行きました。新幹線は不通だったので、名古屋から近鉄で行きました。

難波で乗り換え地下鉄で梅田へ。当時、西の方向へ行くには阪急の西宮北口まででした。

阪急梅田駅へ来ても本当に大地震があったんだろうか、と不思議な気になりました。あまりにも普段通りです。

ごく一部の人達が大きなリュックを背負って震災関係者だとわかりましたが、他の乗客に迷惑がられていたのを見ると悲しくなりました。

西宮北口を降りるとすぐに倒壊家屋があり、大地震は本当だったことがわかりました。

原付バイクと自転車を売っているお店を見つけました。原付バイクも売ってましたが、西宮市民でなければナンバープレートの関係で当日引渡しができないとのことでした。

自転車を定価で購入し、国道2号線を西へ西へと進みました。国道は1車線が緊急車両用に空けられもう1車線は大渋滞です。また歩道は歩行者がゾロゾロ歩いています。

歩道も車道も縦横無尽に使える自転車での移動が最適だったかも知れません。

西宮、芦屋と西へ行けば行く程、倒壊度合いが大きくなっています。東灘区に入り、トラさんの実家が面していた旧西国街道であった道に入ろうとしたら、電信柱が倒れており行くことができませんでした。

別の道を使って遠回りして実家の前に来てみると、1階は潰れて2階だけが残っていました。予想はしていましたが、実際に目の当たりにするとショックです。

トラさんが高校生時代に使っていたジャージを着た母親がいました。「あんた、来たんかいな。来んでええのに!」との第一声です。父親もピンピンしていました。

同じ敷地内にある木造アパートも1階部分が倒壊していました。隣の叔父の家も1階で寝ていた叔父は家具の下敷きになり圧死、2階で寝ていた長男(トラさんのいとこ)家族は無事でした。

トラさんの両親も1階で寝ていましたが、その寝室に、米国へ行った兄から預かったエアロバイクが置いてあり、それが天井を支えて1メートルくらいの空間ができていたそうです。

大地震の後、その空間から這い出すことができ、奇跡的に助かったようです。

近くの中学校が避難所として割り当てられていましたが、その晩は2階だけ残った実家にトラさんも泊まりました。

今後も、阪神大震災に関してトラさんが体験したことが、教訓やヒントになるようなこともあると思いますので、覚えている範囲で綴っていきたいと思います。

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